LOGIN金属製のドアノブに触れると、冷たかった。
背後から近づく車椅子の音が、廊下に低く響いた。 その冷たさで、少しだけ息が戻る。 追いかけてくる音がした。 振り返らなくても分かった。「榊さん」「ここで止まります」 低い声が、少し離れた場所で止まった。 本当に、止まった。 私はドアノブから手を離せなかった。「今は、何も言わない方がいいですか」「慰めは、たぶん聞けません」「慰めはしません。ただ、一つだけ訂正させてください」 律の声は静かだった。「……一つだけ。あなたがやったことじゃありません」 口の中が熱くなる。「そんなこと、頭では分かってます」「分かっていても、そう思えないんですね」「でも、琴美さんが私を抱いた時、本当は、その子を抱きたかったんだとしたら」 言葉が途切れた。 ドアノブに映る自分の指が、白くなっている。「危ないと思ったら止めてください。帰るかどうかは、その時考えます」 廊下の向こうで、エレベーターが開く音がした。「分かりました」「帰る車だけは残してください」「それは用意します」 ようやく、ドアノブから手を離した。 会議室へ戻ると、葛城はまだ席にいた。 高瀬さんは資料の撮影を終え、受領書の控えを二部に分けている。 私は席に戻り、机の上の二枚の紙を見た。 二人の赤ん坊。 ひとりは、名前をもらえなかった。 ひとりは、名前を奪われたかもしれない。 どちらが私なのか。 まだ、分からない。 分からないまま、私は生きてきた。「如月家側の控えは、どこにあると思いますか」 私が聞くと、葛城は目を細めた。「本家の旧書庫。もしくは、如月グループの総務保管庫です。二十四年前の外部支援資料と一緒に綴じられている可能性がある」「外部支援資料」 高瀬さんが反応した。 葛城は、そこで口を閉じた。 まただ。 知っているのに、全部は渡さない顔。「金銭の記録がありますね」 私が言うと、葛城の指が止まった。 律の視線が、葛城へ向く。「今ここで言えることは限られます」「言えないなら、結構です」 私は紙から目を上げた。「自分で確認します」 葛城は、何かを言いかけてやめた。 その時だった。 私のスマートフォンが震えた。 表示された名前を見て、すぐには通話ボタンを押せなかった。 如月琴美。 出るべきか、一瞬迷った。 けれど、今その名前から逃げれば、また誰かが勝手に話を進めるように思えた。「出ます」 短く告げて、通話ボタンを押す。 向こう側から、すぐには声がしなかった。 衣擦れの音と、浅い呼吸だけが聞こえる。「……栞さん」 琴美さんの声は、ひどく小さかった。 泣いているのか
金属製のドアノブに触れると、冷たかった。 背後から近づく車椅子の音が、廊下に低く響いた。 その冷たさで、少しだけ息が戻る。 追いかけてくる音がした。 振り返らなくても分かった。「榊さん」「ここで止まります」 低い声が、少し離れた場所で止まった。 本当に、止まった。 私はドアノブから手を離せなかった。「今は、何も言わない方がいいですか」「慰めは、たぶん聞けません」「慰めはしません。ただ、一つだけ訂正させてください」 律の声は静かだった。「……一つだけ。あなたがやったことじゃありません」 口の中が熱くなる。「そんなこと、頭では分かってます」「分かっていても、そう思えないんですね」「でも、琴美さんが私を抱いた時、本当は、その子を抱きたかったんだとしたら」 言葉が途切れた。 ドアノブに映る自分の指が、白くなっている。「私が、あの家で笑ってた時間は」 続きは出なかった。 律はしばらく黙っていた。 すぐに否定してくれれば、楽だったかもしれない。 違います、あなたは悪くありません、と、きれいな声で言ってくれれば、私はそれに怒れた。 けれど律は、少し時間を置いてから言った。「……笑ってたことまで、あの人たちのものにしなくていいんじゃないですか」 その言葉に、ドアノブを握る手が緩んだ。「……そんなふうに言われると、何を返せばいいか分かりません」「……返事は、いりません」 しばらく、ドアの向こうの階段を見た。 詰まっていたものが、少しだけほどけた。 私はドアに額を近づけた。触れる寸前で止める。「私、嫌なんです」 律は問い返さず、私が続きを口にするまで待った。「琴美さんを、かわいそうだと思ってしまうこと」 言ったあと、ドアノブを握り直
「当時、如月家の実子は亡くなったと見ています」 葛城の声は、乾いていた。「一方で、九条葵さんの子は死産として処理された。なのに、その記録には確認者署名がない。識別バンドの写真、看護師長の姓、父のメモ。合わせると……少なくとも一人の赤ん坊は、記録上の死と実際の所在をずらされた可能性が高い」 説明はそこで終わったのに、会議室の時間だけが止まったままだった。紙の上では「死産」「死亡」「保管」と短く片づけられている。その一語一語の裏に、赤ん坊の体温や、誰かの腕から離された重さがある。私はそこを想像しないようにして、失敗した。「可能性」 その言葉が、今日は妙に腹立たしかった。 窓際のカーテンが空調で揺れ、すぐに戻った。「私が、その子だと?」「断定はできません」「でも、そう言いに来たんでしょう」 葛城は答える前に、視線を落とした。 高瀬さんがこちらを見た。止めるべきか、迷っている顔だった。 律は黙っている。 私は水のグラスへ手を伸ばしたが、爪が側面に当たって音を立てた。 飲めなかった。「琴美さんは、知ってたんですか」 葛城は目を上げた。「おそらく、知らなかった」「おそらく」「如月琴美さんの署名は、こちらの写しには残っていません。保護者同意欄、退院関連の控え、後日の連絡先。どれも、如月隆一氏の名前が中心です」 隆一。 その名前だけで、紙の匂いまで変わって見えた。 父だった人。 私を追い出した人。 会社を守るために私を榊家へ差し出した人。 そして、二十四年前にも、何かを選んだかもしれない人。「隆一さんは、知ってたんですね」「少なくとも、何も知らなかったとは考えにくい」「考えにくい」 乾いた笑いが出かけたが、声にはならなかった。「どうして、そんなに薄い言葉ばかりなんですか」 葛城の顔が、歪んだ。「……断言できる資料がないんです。曖昧なまま伝えれば
滲んだ赤い判を見たまま、私はしばらく瞬きができなかった。 冷めた茶の色が、湯呑みの内側に濃く残っている。 紙の上の文字は少ない。 日付。産院名。女児。処置欄。 資料の端を押さえる指が、動かなくなった。 私の誕生日と同じ日付に、生まれて、死んだことにされた赤ん坊がいる。 二つの記録が、頭の中でうまく重ならなかった。「朝霧さん」 高瀬さんの声がした。 淡々としている。けれど、さっきより一瞬だけ低い。「次の紙へ進みます。止める時は、いつでも言ってください」 止めることもできる。 そう言われて、握っていた指が少し緩んだ。 握っていた手を開き、机の上へ置いた。「見ます」 声は、かすれていた。 高瀬さんは頷き、薄い紙束の中からもう一枚を抜き出した。手袋越しの手の先が、紙の角を慎重に整える。 古い事務控え。 こちらも同じ日付だった。 母体名欄には、白い四角はない。 掠れてはいるが、読めた。 如月琴美。「如月琴美」の文字を、二度読み直した。 隣で、律の指が肘掛けを強く押さえた。 私は紙から目を逸らせなかった。 新生児欄。 女児。 出生時刻。 処置欄。 そこにも、赤い判があった。 死亡確認済。 ただし、こちらには確認者署名があった。 読みにくい崩し字で、医師らしい名前が入っている。「同じ日に、二枚あるんですね」 声が、思ったより遠く聞こえた。 葛城は、机の向こうで視線を落とした。「日付も産院も一致しています」「同じ旧棟ですか」「同じ旧棟です。正確には、分娩室の記録だけ別管理でした」「これは事務側の控えにすぎません」 高瀬さんが、すぐに補う。「現時点では、この二枚だけで親子関係や生死を断定することはできません。正式な診療録、出生届、死亡届、埋火葬関係の記録、当時の台帳との照合が必要です」
生きている。 母かもしれない人が、生きている。 会議室の時計は進んでいるのに、私は同じ言葉の前にいた。「ただし、現在どこにいるか、私が直接管理してるわけじゃありません。数年前までの所在は知っています。今もそこにいるとは限らない」「なぜ、そんな言い方をするんですか」 返事は、すぐには来なかった。椅子の脚が床を擦り、その音だけが先に動いた。「九条康生が動いてるからです」 葛城は、古い紙の端を指で押さえながら言った。「あなたが葵さんに似てきた。だから三年前、如月家で偽令嬢騒動が起きた。少なくとも、私はそう見ています」 律の手が、肘掛けの上で止まった。 私は葛城から目を離さなかった。「見てるだけなら、何とでも言えます」「証拠もあります」「その証拠を見せてください」 葛城は二冊目の封筒へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。 そして、こちらを見た。「すべては、まだ渡せません」 律の声が低くなった。「渡せない理由を、具体的に」「渡せば、九条康生に私が持っている範囲を読まれます。彼は、証拠そのものより先に、証人を消します」 高瀬さんが、ペンを止めた。「消される可能性がある証人は、誰ですか」「当時の看護師長です。狭山という姓で記録に残っている女性」 守り袋の紙片にあった姓。 私は紙片の「狭山」という文字を見た。「生きてるんですね」「おそらく」「おそらく?」「十年前に一度、居場所を変えています。私が接触すると、康生に気づかれる可能性が高い」「便利ですね」 問い返す声が強くなった。 葛城がこちらを見る。「危険だから渡せない。危険だから会えない。そう言えば、あなたはずっと持ってる側でいられる」 誰も動かなかった。 律は口を挟まず、私を見ていた。 私は机の上の紙を見た。 生まれた日の記録。 母親の名らしきイニシャル。 死んだことにされたかもし
「……そう言われると思っていました」「それも嫌です。分かった顔をしないでください」 葛城の指が、ぴくりと動いた。 言い切ったあと、口の中が乾いた。 レコーダーの赤いランプだけが、点いたままだった。 律がこちらを見る気配がした。でも、何も言わない。 よかった。 今、代わりに怒られたら、私はたぶん何も言えなくなる。 葛城は深く息を逃がした。「……すみません。今のは、余計でした」 私は答えず、封筒を見た。「中身を見せてください」 葛城は高瀬さんへ視線を移す。高瀬さんが頷き、手袋をしたまま封筒の状態を撮影した。封緘部分、署名、日付、折れ、汚れ。ひとつひとつ記録してから、開封用のペーパーナイフを入れる。 中から出てきたのは、薄い紙の束だった。 コピー用紙ではない。もっと古い、少し黄ばんだ感熱紙のようなものと、台帳を撮影した写真のプリント。 高瀬さんが一枚目を机の上に置く。 白桐産院 旧棟 入退院事務控え。 文字はかすれていた。けれど、日付だけは読めた。 日付を追っていた目が止まった。「これは、正式な診療録じゃありません」 葛城が言う。「診療録の原本は、閉院後の移管先が不明瞭です。私が保管していたのは、事務側の控えと、父のメモの一部だけです。だから、今ここで断定はできない」「断定できない資料を、なぜ今出すんですか」「あなたが、紙片を見つけたからです」 先回りされていたことが、また一つ増えた。「つまり、私がここまで来るのを待ってたんですね」「待ってた、というより……」 葛城はそこで初めて言葉を探した。「こちらから押しつけていいものじゃないと思ってました」 呆れて、息が漏れた。「それを決めたのも、あなたですよね」 葛城は返事をしなかった。 誰もすぐには口を開かなかった。 高瀬さんが、二枚目の紙をそっとずら
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし